畠山 勇子(慶応元年(1865年)12月 - 明治24年(1891年)5月20日)は明治期の女性である。1891年の大津事件で日露関係が緊張した際、京都府庁前で事件の被害者・ニコライ皇太子への謝罪の遺書を残して自殺した人物として有名。
事件や社会の騒動を知ってにじっとしていられなかった勇子は汽車で京都へ旅立ち、様々な寺を人力車で回った後、5月20日の午後7時過ぎ、京都府庁前で死後見苦しからぬよう両足を手拭にて括って、剃刀によって咽喉と胸部を深く切り、自殺を謀った。しかしすぐには死ぬことができず、医師は治療を施したが、傷の深さゆえついに絶命した。