細野 正文(明治3年10月15日(1870年11月8日) - 昭和14年(1939年)3月14日)は、明治期の官僚。作曲家の細野晴臣は孫。
細野は、1912年第1回鉄道院在外研究員としてのロシア・サンクトペテルブルク留学の岐路にてタイタニック号に日本人ではただ一人乗船していたが、タイタニック号は沈没。その際他人を押しのけて救命ボート(13号ボート)に乗ったとの誤報が広まり、新聞や教科書等で大きな批判を集めることとなる。この批判によって、翌1913年には鉄道院主事を免官となる。
細野は一切弁明をせずその不当な非難に生涯耐えた。しかし、死後の1941年になって細野が救助直後に残した事故の手記が発見され、1997年に手記等の調査から人違いであることが確認されて、正式に名誉回復がなされた。しかし、事故から時間がたちすぎている一方、名誉回復からの日が浅いために、日本人男性が非紳士的であるといった類の中傷の題材に日本人女性や外国人が用いることがある。事実、死後にも洞爺丸の海難事故の際にタイタニックの誤報が取り上げられ、再び国内でこの誹謗が蒸し返されたこともあった。それらの事情から、名誉回復がいまだ十分になされているとはいえないとの指摘もある。